「夢の豆腐」

むかし「夢の途中」という歌が流行ったことがある。
キスギ・タカオという人が唄っていた。

「ただ、こころの片隅にでも小さくメモして」という詞がありきたりだったけど、そういうことって良くあるし
さりげない日常をこころの印画紙に収めておくのってとても大切なこと。
詩なんかもそうしたところから生まれたりする。

もし、建物の印象を食べ物に置き換えてみたりすると、色んな変換が出来るのかも知れない。

例えばプリンみたいな家とか、マカデミアナッツチョコレートの家とか。
ドリアンみたいな家もあるし、栗きんとんみたいな家もあったりする。

@さんの家が完成して足場がハズレ、養生シートからスルリと抜け出した姿を見たときすぐに思った。

「豆腐みたいだなー」

豆腐のおいしさが分ってくるのは長じてからではないか?
あまり幼児で「僕は豆腐がすごく好きなんだー」という児は多くないと思うのだけれど。

僕などは小さい頃、湯豆腐が出てくるとうんざりして暗い気持になったものだ。
味がしない変な柔らかいものを、ムリにしょう油とかつお節にひたして食べるのが全然理解できなかった。

ウルトラマンにしたって鉄人28号にしたって、スルッとして居なくて寧ろ少し毒々しかったからこそすごく少年のこころに
こびりついて離れない様なところがあった。
やはり豆腐みたいなさり気なさを理解するには一連の人生のアクとアカみたいなものが体中に溜まり、捨て去り、
みたいな精神の変遷が少なからず必要なのではないか?
だから一見単純な豆腐の、実は深い滋味が分るとき初めてヒトは、豆腐に篤い思いを至すのだと思うのは
僕だけの沈潜ではないだろう。

極めて豆腐というものは「古式豊かな神の国」の賜物である。
大豆があり、苦汁があり、水があり、生成の過程にこころが入る。

そうしたものを口に含むとき、いくばくかのほろ苦さや甘さ。
重みや軽み。
熱い、冷たいを舌にころがし刹那の景にこころゆだねる。

こころの片隅に小さくメモしてあった薄く降り積もった感慨が、食と共に脳裏を去来する瞬間を味わう事こそ、
豆腐賞味の醍醐味であろう。

これほど深く、簡素で、潔の良い食べ物は少ない。

つまり、その家の印象が豆腐に帰依するのだとしたら、その洗練と深みは凡庸を逸しているということだろう。

捨て去って、捨て去り。そぎ落して、そぎ落す。
伝承は、今も明かる中枢に仄めく。

夢の途中で、「夢の豆腐」に相まみえた。
かかる現(うつつ)の世姿として。

 




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